心象風景

* 算命学による宿命鑑定 *

おひとりおひとりの心に寄り添い、一歩前へ進むためのエッセンスをお伝えしています

静から動へ切り替わりのとき

 

ブログの更新に二年近くも時間を要することになってしまいました。

ご覧いただいていたみなさまにお詫び申し上げます。

 

体調の乱れなどで休み休みの状態でしたが、毎月の鑑定を再開いたしました。

スケジュールはこれまでと同じ、毎月【土・日曜日】となります。

ただいま 9月9日以降のご依頼を承っております。

お申込みは 「カテゴリー:鑑定のご依頼」 をご参照ください。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

* * * * *

いま、変化の時期を迎えている方が少なくないのではと思います。

私の周りはもちろんのこと、私もその一人です。

 

仕事、社会的立場、人間関係、夢。

その変化が、自らの意志と行動から生まれたものならば、たとえ思い描いた展開や結果から

離れていたとしても、多少なりとも心の覚悟により、余裕を持つことができるかもしれません。

 

でも、そうでない方もいらっしゃるのではないかと思うのです。

思いもかけない方向へ導かれている、自分が望んだものとは真逆だと。

 

今この時を流れる気には波があり、

お一人お一人の気にも、各々の器の大きさに応じた波があります。

世間や、関わる相手の気の影響もあります。

静から動へと切り替わりのタイミングでは、気の振れ幅も大きくなります。

静から動へ、つまり変化を促されながらも、気持ちがその場所に留まろうとすればするほど、

この振れ幅を大きく感じることになります。

 

どんな時でも平常心を保つなどということは、簡単にはいかないのがふつうです。

人間ですから。

瞬間、不安や怖れが湧いてきても仕方ないと思います。

それでも、呑み込まれないでほしいのです。

その気分でいる自分は、こうありたいと思う自分の姿でしょうか。

 

自分への信頼を忘れないでください。

何がいけなかったのかとか

誰かを恨むとか

ついていないとか

そんなふうに思わないでほしいのです。

 

隣の芝が青々と輝いて見える日があるかもしれない。

でも、比べることではないのです。

これまで自分に預けられた芝を緑豊かに居心地の良いものに…と大事にしてきたはず。

諦めずにそれを続けてほしい。

大丈夫だから。

いまもこれからも、自分を信頼していいのだということ。

生きていればいろんなことがあります。胸をえぐられるようなこともある。

そのことで心を深く傷つけるかどうかは自分で選択できる。

自尊心を傷つけることはありません。

本物の自尊心というのは、こういうことで姿を現すものではないと私は思います。

 

長いドライブの途中、地図に載っていない道が現れることもある。

渋滞に遭遇して、一旦エンジンを止めることもある。

青信号続き、平坦でまっすぐな一本道は、あったとしてもそう長くはないでしょう。

何気なくやり過ごしているだけで、生きている間にはそういう経験をたくさんしてきている。

私たちは生き抜く力を蓄えてきている。

 

一見つまづきのように見えるような出来事も、あなたを否定しているということではない。

ステージを変えるときが来たということ。

成長のチャンスだということ。

 

大丈夫です。

ここからまた新たな始まりです。

自分への信頼を思い出してください。

自分への信頼とは、大いなる存在への信頼と同じです。

 

不動心のお手本のような方々がいらっしゃるのも事実ですが、その方々だって、

茨の道を歩いてその境地に辿り着かれたのではないでしょうか。

人を惹きつける笑顔としなやかさには、その光に隠れた影があることを私たちは知っています。

"今、ここ" に向き合っていく。その先に、また道は作られていきます。

あなたの笑顔が、誰かの気持ちをぐいっと引っ張り上げるパワーを湛える日が必ず来ます。

 

ハートに手をあてて 「大丈夫」:) と言ってあげてください。

 

 

ひとの心はひとのもの

 

何か願いごとを「神様に委ねる」と言うと、

自分では努力ひとつせずにただ口を開けて待っているだけ、と捉える人がいる。

たしかにそういう形の受け身の人もいるだろうが、

少しでも宇宙のしくみを知った人が取る受け身の姿勢とは、

自分でできる限りのことを試み、努力し、

しかしその結果は神様の決めることとして天に委ねる、というものだと思う。

願い、祈ってはいるが、手放してもいるという状態。

やってみればわかることだが、そう楽な状態ではない。

 

誰かを想う気持ち、期待。

そこに宿る強さは引力となって、相手の心を引き寄せられるかもしれない。

けれど、こちらの都合の良いようにコントロールしようとして

それが当座叶ったとしても、

本質のベクトルが異なる者同士の先には、いつしか分かれ道が見えてくる。

 

やれるだけのことはやってみる。

そしてその結果は、天の意志に任せる。

相手に期待せず、それでも最善を尽くす。

自分にできることはそれだけと諦観に至るまで、その都度大きな葛藤があるだろう。

 

情を交わした相手であったり、

時間をかけて理解を深めてきた相手であったりすればなおのこと、

期待はずれにならないことを願うのがふつうで、

その想いを手放すことは簡単ではないだろう。

 

それでも、

ひとの心は、ひとのもの。

こちらの思い通りにできるものではない。

 

恋とか愛とか、

もがき苦しむほど、そういうことに悩んだことがあるひとは、

誰にも相談できない悩みのひとつやふたつ抱えた経験があるだろう。

なんでも話せる相談相手がいれば心強いのかもしれない。

でも、

ひとりで悩む、というのが肝なんだろうと思う。

それができるひとは、その時間をとことん大切にするといい。

ひとりの時間が育んでくれるものには、しなやかな強度がある。

 

自分にしかわからない感覚

言葉では表現できない想い

初めて知る自分の一面、別の顔

もっとも複雑な関わりは、他の誰でもない自分自身との間で結ばれているのだということ

そんな自分を受け容れて生きていくということ

 

ひとの心は、ちょっとはわかるような気はしても、

掴み切れず、繋ぎとめることもできない。

自分自身との関係で見えてくるものと、似たようなところがある。

 

大なり小なり、そんな切なさを抱えて、それでも人と人とは繋がっている。

深い信頼が生まれることもあれば、裏切りという幕切れもある。

どんな過程からも、結果からも、学ぶことはある。

淡く儚く、ほんとうに私たちはイリュージョンの中に生きているのだなと感じる。

 

 

風の中

 

夜半に到来した木枯らし一号。

落ち葉のカラカラと舞う乾いた音に、

風が次の季節を運んでくるのだなと、耳を澄ませていました。

もう何年も、長い夏の後、一瞬の秋を挟んで長い冬へ、という季節の流れに慣れかけていましたが、

今年は長い秋を堪能できていいな、としみじみ感じていたところ。

 

風が強く吹いている間は、

巻き上げられる砂埃が気になって、目を細めて視界が狭まることもあれば、

口を塞いで身構えることもあるかもしれない。

 

なにかの渦中にいると、

防御に精一杯で頑なになったり、

出来事の表層に囚われて、感情が独り歩きして迷い道に入り込んだり、

余裕のなさから生み出されるものに、あまりいいものはない。

 

けれど、風が去った後には、

ただひたすら頭上に広がる青空や、

陽射しを受けてきらきらと舞い落ちる葉っぱなんかが目に留まるようになる。

そういうものが見えるようになれば、

内なる泉から湧き出てくるものには、生命力を感じさせる何かがある。

 

何年も前のこと。

悩み、迷う日々にどっぷり浸かった私に、

「迷いであって、その想いに嘘はないのでは?」という言葉を差し出してくださった方がいた。

迷い=嘘、偽り、ということではないでしょう、と。

 

風の中に在って、

今はまだ、最善の答えを導き出せていなくとも、

悩み疲れる自分に愛想を尽かす日があっても、

それがちょっぴり長い時間になっていたとしても、

無駄な時間など、ない。

自分の気持ちに嘘をついているというわけではない。

目標や理想の定め方も、そこに至る航路も、時間の流れ方さえも、

自由に選び取っていけばいい。

 

北風だの寒風だのをやり過ごした後は、

誰もが、少し逞しくなった自分に出逢えると思います。

 

 

真にしあわせであること

 

お盆を挟み、こんなに早く秋を感じることになるとは思ってもみませんでした。

猛暑の疲労が出てきたり、気温差で体調を崩されたりしている方をお見かけします。

秋の長雨も続くようです。みなさまもどうぞご自愛ください。

 

先日クライアントさんより、たいへん幸せなご報告をいただきました。

人生の晴れの舞台が迫ってなお、誇らしげでもなければ自慢げでもなく、

いつものように控えめで、純粋で、素直で、そしてたいへん優しいお心のまま。

そう、自然体でいらっしゃるのです。

言葉数は少なくても、とても幸せなご様子はしっかりと、静かに伝わってきます。

 

自然体であること。

それだけで、ひとは十分にきらきらと輝きを放つのだということ、

そしてこの輝きは、ひとが本来持つものだということを、

私の心に刻んでくださいました。

 

ちょっときれいごとなんじゃない?と取られるかもしれませんが、

真にしあわせであるということは、

他者に妬み嫉みのようなネガティブな感情を差し挟む余地なんて

与えないものかもしれない、とも感じました。

ひとりの幸せは、そのひとりだけのものではなく、ほかの誰かにも伝播していく。

幸せのパワー・エネルギーの "本質" というのはこういうことなのではないか、

という実感がありました。

 

しあわせの波動をありがとうございました。

とても美しく、神々しい輝きでした。

末永くお幸せが続きますことを、こころよりお祈りしております。

 

 

 

瑠璃の門・在校生のみなさまへのお知らせ

 

「瑠璃の門」ホームページ(HP) をご存知でない方へのお知らせです。

 

柳本美鈴先生のご逝去により授業を受けられなくなってしまった

在校生を支援すべく、卒業生による授業が提供されるそうです。

師範科・臨位クラスの生徒さんが対象とのこと。

9月19日(土) に説明会が開催されるそうです。

詳細は「瑠璃の門」 http://www.rururi.com/ のトップページ

" 重要なお知らせ "をご参照ください。

" 瑠璃の門 算命学教室 在校生の皆様

「授業サポート説明会」のご案内 "

というタイトルでご案内がございます。

 

私は運営に携わっていないため、勝手ながら本件に関するお問い合わせに

つきましてはお受けできかねます。ご案内のみで申し訳ございません。

 

門下生のみなさまと算命学とのご縁がこれからも続きますようお祈りしております。

 

 

 

宿命と運命

 

宿命と運命は別物です。

ふたつの違いについては、算命学を習い始めてすぐに

(宿命 + 環境)× 努力 = 運命

と教わります。

宿命は改良できないもの、不変。

運命は改良できるもの、可変。

なるほど、と知識としては理解した気になります。

 

では、この式を見てリアルに感じる方はどれくらいいらっしゃるでしょうか。

腹に落ちてくるような理解のために、すこし想像を広げてみたいと思います。

 

宿命に備えるものとしては「性格」や「行動パターン」などの特徴がありますが、

それらの要素を「パレット上に並べた絵具」とします。

ひとそれぞれ持ち色の種類や数が異なり、

仮に同じ下絵(テーマ)で描いたとしても、出来上がる絵はすべて違ってきます。

 

持ち色の種類・数とその組み合わせ、色を重ねる順序やタイミングによって

重なり合う色合いにはそれぞれの妙があります。

キャンバスや画用紙への塗り方も、絵筆、ペインティングナイフでは色の乗り方も

違います。指を使う場合もあれば、ブラシを使う人もいるでしょう。

 

算命学では宿命を生年月日から導き出すため、

生年月日が同じ人は同じ配色のパレットを持つことになりますが、

仕上がりが違うことは、これで容易にイメージできるのではないかと思います。

 

緑色といってもバリエーションがありますね。

湖の底のような濃い深い青緑もあれば、若葉のような生命力を感じる黄緑もある。

どんな色をどれくらいの数・分量を持って生まれてきたか、

鑑定でもしなければ、ふつうは知らずに人生を送ります。

にもかかわらず、実に多くの方々がパレットの絵具を使いこなし、

今を精一杯に生きていらっしゃるさまを拝見するたび、

人間の不思議や魂の神秘を感じずにはいられません。

 

組み合わせ上手とならないときもあるかもしれません。

使いこなせていない色もあるかもしれません。

器用に描けない方もいらっしゃるかもしれません。

どう描いたらよいか迷うときもあるかもしれません。

それでも。

何をどれだけ持っているかなんて知らなくても、

それぞれが自分のキャンバスに向き合っているという素晴らしさを、

私たちを包む大自然は見守ってくれているのではないかと思うのです。

 

この星を持つから、あの星を持つから、こういう流れだから。

鑑定はそんな事柄をキーにして進めさせていただくわけですが、

いつもそれらを飛び越えた、おひとりおひとりの神秘に触れさせていただいているような気がして、

身の引き締まる想いがいたします。

 

明日からまた一週間が始まりますね。

それぞれの持ち場で、がんばってまいりましょう。

 

 

8月からの鑑定スケジュール

 

「お暑うございます」

この時期、私の生まれ育った地域では、この挨拶が交わされます。

毎年、猛暑・酷暑の陽射しに慣れることなく季節は変わってしまいますが、

オリーブの苗木が我が家のベランダに仲間入りし、酷暑・猛暑の中にも、

成木に育つ過程を見守る楽しみが増えました。

 

先日は恩師の逝去に際し、温かいお言葉をいただきありがとうございました。

お蔭様で元気に過ごしております。

何かが急激に変わることもなく、同時に自分の存在のちっぽけさを感じていますが、

今だからこそ感じ取れることがあり、

すぐには整理のつかない考えや想いも、ひとつひとつ、

その時どきのかけがえのない経験から来るものとして受け留めていこうと思いました。

 

長らく鑑定スケジュールをお知らせしておらず申し訳ございませんでした。

8月以降は土・日曜日をご予約日として承ります。

私の理解する算命学で、みなさまのご相談事についてどの程度お役に立てるかわかりませんが、

ご相談者それぞれのかけがえのなさを、いっとき、共有させていただければと思います。

 

あとひと月半くらいはこの暑さが続くのでしょうね。

夏だからこその楽しみも、見える景色もあります。

ご自愛いただきながら、どうぞ素敵な時間をお過ごしください。

 

 

別れ

 

人生を揺るがすような出来事は、いつもある日突然やってくる。

そうわかっていても、何かの間違いではないかと信じられなかった。

 

算命学の恩師、柳本美鈴先生が永眠された。

突然の報せだった。

 

6月に同窓会を予定していたものの、

坐骨神経痛が出てしまったので一旦取りやめを、

と先生からのお申し出を受け、ご快癒を祈っていた最中だった。

 

同窓会は、先生からのお声掛けがきっかけだった。

 

私が所属したクラスは、お世辞にも勉強熱心な門下生揃いとは言えなかった。

それでも一人も脱落者を出すことなく卒業の日を迎えられたことを、

先生は本当に喜んでくださった。

それ以来の再会となるはずだった。

 

寺子屋スタイルのお教室は先生のご自宅を開放したものであり、

少人数制ゆえの良さもあれば、窮屈さもあった。

偶然の廻りあわせで構成されたクラスだが、生徒間の年齢差は最大でも6歳。

同年代ゆえの競争心か、個々の性格ゆえか、打ち解けあい、和やかな雰囲気のスタートとはいかなかった。

私は年上のクラスメイトから、ものの捉え方などについて毎回のように「ご指導」を受け、

通い始めて2年目にはうんざりにも限界を迎えてしまった。

勉強しに来ているのに、なぜ先生ではなくクラスメイトから勉強以外のことで

過剰なまでに意見を浴びせ続けられなくてはいけないのか。

これが職場であれば、完全に闘っていた。年齢の序列など気にしなかった。

 

それでも、先生のご自宅で事を構えるような失礼だけはしたくなかった。

我慢に我慢を重ねていたが、そのクラスメイトがいない勉強会のある日、

先生の前で心情を吐露してしまった。このまま続けていく自信がないと。

 

先生は、

小手先でどうこうしようとせず、自然体でいなさい。

怒りたかったら、怒っていい。

年下だからと我慢して、自分を抑えなくていい。

言いたいことがあったら言いなさい。

と仰った。

 

私が置かれた状況に、同情も共感もしてくださっていた。

私のこころの内には「それなら、なぜその場で何も言ってくださらないのか」

そんな疑問と悔しさが湧きあがったが、すぐに自分の宿命星を思い出し、納得した。

これは、自分の力で乗り越えなくてはいけないのだ。

そういう星を私は持っているのだ。

だから先生は見守ることに徹してくださっているのだ。

 

翌月からの私は、先生のお言葉と眼差しを糧に、自然体でふるまうことができるようになっていった。

今からすれば、あれも必要な経験だったと心から思う。

先生とのこのエピソードも、どれだけ理不尽な思いで傷ついていたのかも、

かつて対立していた相手に伝えられるまでに、人間関係を深めることができた。

いまでも必要な時には協力し、支えあう絆を育むことができた。

 

算命学への取り組み度合いもさることながら、

先生からすれば礼儀作法において二言三言では気が済まないであろうほど

不遜な私たちクラスを、それでも先生は見捨てずにいてくださった。

熱心に算命学を進める方々は大勢いるであろうに、

同じように、お心にかけてくださった。

 

「このクラスは ...」と、呆れて先生はよく笑われた。 

多少の抑制の努力はしつつも、自由奔放さを隠しきることができないクラスだったせいか、

先生も、よそ行きではない、普段着の表情をさまざまに覗かせて下さっていたように思う。

 

お声のきれいな先生だった。

誰よりも女性らしく、まさに爪の先から...というおしゃれで、

ロマンティックなものやアンティークがお好きだった。

贈り物のお花も多かったが、亡くなられたお母様が好きだったからと

ご自身でもバラを大事に育てていらした。

季節の器においしい玉露を淹れて教室に出迎えて下さり、

休憩時間には旬の果物、お菓子を揃え、

私たちが想像以上に食べるせいで、追加で次々に出してくださっては、

このクラスはよく食べてくれると、笑っていらした。

 

お誕生日のささやかなお祝いや季節のご挨拶には、

後日、きまって丁寧なお礼状が届いた。

「いつも心にかけてくださってありがとう」

先生から発せられる言葉には、魂があった。

 

とても立派な、尊敬する先生だ。

複雑な算命学をわかりやすく教える頭の良さ。

優しく、情に厚く、勘が鋭く、きめ細やかな心配りは超一級だった。

それだけに、特に礼儀作法などのふるまいについては、人に求めるものも厳しかった。

でも、聖人でも完璧な善人でもなかった。

俗っぽいところも、どろどろしたところもあった。

好き嫌いもはっきりなさっていた。

対応に戸惑う、難しい一面もあった。

 

内心、先生に反発を覚えたことも一度や二度ではなかった。

そんなことは、先生にはきっとお見通しだったと思う。

それでも、先生は私たちの成長を信じ、寄り添ってくださった。

 

こんなにダメな私たちクラスの同窓会を提案してくださったと聞き、

最初は疑問だったが、電話で連絡を取らせていただいた際、

先生が本当に喜んでくださっているのがわかり、先生が望むマナーで、

ルールで、私ができることは全部やらせてもらおうと思った。

先生の前では、いつだって単純になってしまう自分を思い出した。

 

矢継ぎ早に、弾むように繰り出されるお話から、最近の先生のご状況が窺えた。

相変わらずお忙しいが、まもなく卒業生を送り出し、月2日は自由な日が持てること、

平日の鑑定も最近は回数を抑えていらっしゃること、お身体の具合。

 

その後、坐骨神経痛になってしまったので...との残念なお知らせの際も、

そのほかはどこも悪くないので、必ず連絡しますから、同窓会でお会いしましょうね、

と、楽しみになさっていると重ねて言われた。

息子さんの付き添いで病院に通われたこと、

信頼する整体院の先生が特別に往診してくださることになり、

必ず治しますと言われて心強く感じていること。

先生にお目にかかるのは緊張でもあるが、元気になられた近い将来の再会を心待ちにしていた。

 

世に広く知られてもおかしくない人だった。

算命学を継承するという役割を全うした、本当に立派な人だった。

最期も多くの人に囲まれ、たくさんの弔辞を捧げられても不思議ではなかった。

しかし、先生はそれを選ばれなかった。

 

おしゃれで華やかな装いに身を包んでも、その生活はつつましいものだった。

ご相談者はもとより、門を叩いた多くの方の心の支えとなられたが、

派手な交流もなければ、宣伝もしなかった。

実力があればこそ、を、最期まで、これでもかと見せつけてくださった。

 

同じ授業に出ていても、それぞれの心に宿ったものは違うだろう。

それが算命学の教えにとどまらないことだけは、たしかだと思う。

 

非凡な、まさに二人といない方だった。

語りつくせぬ、魅力溢れる方だった。

 

先生、

哀しみは、他の誰かとある程度共有することはできても、

寂しさは独りで抱えていくよりほかないのですね。

 

この喪失を埋めるものはない。

けれど、いつまでも腑抜けのままで時を刻むことは許されない。

埋められない喪失を抱えて生きていくことも、人生の一つの側面だ。

 

これからは、折々に、心の中で語りかけさせてください、柳本先生。