心象風景

* 算命学による宿命鑑定 *

おひとりおひとりの心に寄り添い、一歩前へ進むためのエッセンスをお伝えしています

始末のつけ方

 

20年くらい前、だったと思う。

この国は後始末が下手すぎる、と、筑紫哲也氏が静かに怒っていた。

政治、外交、社会問題。

どれだけ万全を期しても、予期せぬ結果を招くことがある。

人間が為すこと、起きてしまったものは仕方ない。

大事なのはそれにどう対処するかであるが、

何につけ、その対応方法からタイミングまで一事が万事まずすぎる、

という事例が続いた中での発言だったと記憶している。

 

始末のつけ方が上手くなるとは、社会の成熟を意味することと同義と言えるだろうか。

20年経って、この国の始末のつけ方は向上してきただろうか。

 

「始末のいい人」「始末の料理」など、生活の中の始末もある。

物事の最後の処理をきちんとすることに美徳を見るのだろうが、

始末には、向き合う対象への感謝の想いにも通じるものがある。

 

自分の人生に始末をつける時もやがて訪れる。

満点とはいかずとも、まずまずの合格点を付けられるような始末のつけ方が

最後にはできるようになっていたらと思う。

 

 

謙虚さは忍耐力に通じる

 

急に風邪を引き、転げ落ちるように症状が悪化して、なんともないところを

数えた方が早いくらい、次から次へと身体中あちこちが痛くなるという体験を

初めてした週末。

ようやく生きた心地を取り戻して見遣ったテレビに、今を時めく錦織圭氏のコーチ、

マイケル・チャン氏が映っていました。

 

錦織選手に伝えてきたことの中に、

  いつも勝たなくてもいい。

  勝ったときには謙虚さを、

  負けた時には潔さを学べばいい。

というものがあったという。

 

名コーチは技術だけでなくメンタルサポートをも緻密にするものなのか、

チャン氏独特なものなのか。

彼の繰り出す言葉にはひとつひとつにパワーがあります。

そのチャン氏、意外なことにこれまでコーチの経験はないと聞きます。

 

よく、名選手が必ずしも名指導者となるとは限らないといいますが、

組み合わせ、相性も大事なのだろうと思わざるを得ません。

 

長嶋一茂氏は、長嶋茂氏と松井秀喜氏との師弟関係には、

嫉妬という感情を差し挟めないほどの密な、特別な繋がりがあるといいます。

一茂氏は長嶋監督の言っていることがさっぱり理解できなかったけれど、

松井氏はあうんの呼吸で理解できたという。

 

天才プレーヤーも一段上のステージに上がるときにはもがき、試行錯誤を繰り返す。

そしてこれぞという指導者に巡り会えたならば、謙虚さと素直さで

愚直に吸収していく姿勢を崩さない。

天才とは努力を続けられる人、の "努力" の中には、こういったことも

含まれるのでしょう。

 

謙虚に受け留め傾聴する姿勢は忍耐力にもなり、

心身の鍛錬、そして魅力をもさらに高めるものとなるのかもしれません。

錦織選手はその素敵なお見本として、快進撃を見守らせていただきたいものです。

 

 

鑑定スケジュール - 2015年 1月

 

ご挨拶が遅くなり失礼いたしました。

本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

1月の鑑定日は17日以降の "土曜・日曜日" です

ご依頼方法は

「カテゴリー: 鑑定のご依頼」の「鑑定のご依頼方法、料金他」をご参照ください。

 

ご連絡お待ちしております。

 

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お年玉を楽しみに待つ子供たちの様子はかわいいもので、

年を重ねると貯めたお年玉で買いたいものもどんどん変わってきて、

そんなささやかな話題にも、日々刻まれていく確実な成長を感じる。

 

大人になると、何につけ、子供時代のように右肩上がりの成長とはいかなくなる。

むしろ「いい歳をして...」とか「いくつになっても…」と、

人としての成熟度合いについて厳しい感想が漏れることも少なくない。

 

それでも、そんな大人たちの言葉に耳を澄ましてみれば、

生活のそこかしこに小さな変化を取り入れながら、

いきいきと新鮮な気持ちで毎日を送ろうとしていることに気づく。

 

親の背中に、親として、あるいは大人としての理想を追わなくなったのはいつのことだろう。

多かれ少なかれ、多くの人がいつかどこかで「親も人なり」と

親もそれぞれに精一杯の成長を志しては躓いて、の時間を重ねて今があることを知る。

 

とはいえ、大人の庇護の下で生きるしか術を持たない子供の目線では、

必ずしも十分とは言えなかった親のふるまいもあるかもしれず、

どう受け止めるかは、たとえ同じ家庭で育った者同士でも違いがあるだろう。

癒し切れない心の傷を抱え歩む人にしかわからないつらさもある。

 

右肩上がり、最短距離で一直線、の成長は難しくとも、

日々新鮮な気持ちで、楽しみながら変化に対応して生きること。

そんな想いがふわりと舞い降りた、年の初め。

 

 

一陽来復

 

たった一日、いつものように日をまたぐだけなのに、

時間の流れに多くの人の意識が向けられる時が、また訪れます。

一瞬がもたらすあの雰囲気、不思議なものですね。

 

自力や努力ではままならぬ流れを経験した方もいらっしゃるでしょう。

渦中にいる間は余裕を持てず、気づかなくとも、

思い通りにならない中での身の処し方、心の持ちようを体得し、

それと並行して、忍耐力が鍛えられている。

寝ている間にも動き続ける臓器のように、

ひとは無意識下でも成長を止めず、懸命に生きようとしていることを感じます。

 

新年を前に諸々の準備に追われる数日の間にも、

鳥インフルエンザや大雪、

海外からは航空機事故やフェリー火災などの痛ましいニュースが続きます。

 

途絶えることなく、こうして時間は流れていくのですが、

一陽来復を祈願しつつ、この一年の感謝を申し上げます。

 

みなさま、どうぞ良いお年をお迎えください。

 

 

一息つける時間を

 

年末年始のお休みまであと一息。

休み前に詰めておこう、片づけてしまおう、というより、

来る年に委ねましょうと、すでにのんびりムード。

それが許される環境もあるのだな...と、その雰囲気に馴染んでのんびりして良いのやら、

のろまのせっかち、貧乏性の私には戸惑いも。

 

世の中がお休みのときこそ忙しい、という業種もありますし、

24時間365日、常に誰かが目を光らせているインフラ関係の仕事もあります。

みんながのんびりと楽しむ時間も、影で、縁の下で、支え見守ってくれる方々がいるのですよね。

本当に、ありがたいかぎりです。

 

介護や看護、育児でお休みがないという方も、たくさんいらっしゃることでしょう。

厳しい自然災害も続き、安泰とはいいがたい一年ではありましたが、

どうぞ、みなさんにほっと一息つける時間が回ってきますように。

 

 

向き合い方

 

北風に巻き上げられる葉っぱを追いかける子供と、

その子供を追いかけることになるお母さん。

昼下がりのお散歩も楽ではない。寒い中、お疲れさまです。

 

* * * * *

 

算命学の鑑定中、ご相談者の戸惑いを感じることがある。

わかりやすいところだと、

 - 安定を望んでいるのに、生活環境の変化が多くて落ち着かない、とか

 - ごく普通のありふれた結婚でいいのに、なかなかご縁が結ばれない、とか

自分の意志・意図から外れた動きの中に置かれていると感じていらっしゃるのだろう。

 

"だから"、算命学ではどう観えるのか(そして、どうにかならないのか)を聞きにいらっしゃるのだが、

鑑定すると、宿命としてそれらの状態が "その人にとっては自然(あたりまえ)" とわかることもある。

 

だからといって、その理屈を告げられて納得なさるとも限らず。

 - では、ずっと不安定な人生を送るのが自分らしいというのか

 - では、普通の結婚をしたら幸せになれないというのか

言葉にしなくとも、そんな想いに囚われた表情を目の前にして

理論理屈を続けるのは心情的に厳しいし、なにか違う気がする。

 

そんなとき、私はしばし算命学を横に置いて、耳を傾ける。

算命学の鑑定でお時間をいただいているのだから、語る内容はその範囲であるべきなのかもしれないが、

算命学には、それを学んだ人であれば受け留められる宿命論も、ちょっとイタイ話もたくさんある。

自分の置かれているその状態がつらい、嫌だ、と訴える人に、

それはあなたにとって自然なことなんですよ、と伝えて、

そのうえでどのようなものの見方、受け入れ方、アクションがあるかを提案して、

それでよし、とはならない。

相手に理屈を表面的に理解させたつもりでいても、

送り出すそれらの言葉に力を持たせることはできない。

 

ご相談者がどこから得たアドバイスを選択し、どう活かすか、

その決断と行動の先にあるものこそが、追い求めた答えなのだろう。

その決断や行動が、たとえ算命学で言うところの宿命から逸れたものであったとしても、

その選択に、プロセスに、その方にとって必要な経験と学びがあるのだ、と、

私は見守るのみである。

 

他者として、できることには限りがある。

それを大前提にして向き合う場を重ねていくうちに、

占者として見えてくるであろう新たな景色や宇宙の深まりがあるのだろうな、と思う。

 

 

あたりまえのありがたみ

 

気を付けていたつもりが案外立派な風邪を引いてしまい、騙し騙し過ごした一週間。

身体の感覚とはよくできているもので、症状にも "ひと山越えた感" がある。

何をやっても効果を感じないときもあれば、

何が効いたのか、回復に向かい始めたと感じることもある。

 

選挙投票日の今日、東京は風もなく穏やかな青空。

日本海側は吹雪いて大荒れというから、この時期の不公平感は否めない。

天気が良いだけで、健康なだけで、どれだけありがたいことか。

 

小学校の体育館で投票を済ませ、陽射しを味わいながら帰る道々、

目に入るひとつひとつの光景に、穏やかでつつましい温かさがある。

オペラが鳴り響くお宅、

選挙ポスターの前で立ち止まり「どっちもどっちだな」と苦笑いするカップル、

野球のユニフォーム姿の小学生集団、

横断歩道に飛び出した子を叱る母親、

お祖母さんとサッカーボールを蹴りながら歩く幼児。

何という光景でもないけれど、

平穏な時間を当たり前に享受できる社会が、世界中どこにでもあるわけではない。

 

一票の格差など、まったく問題がないわけではないが、

そこそこ公正な選挙制度が運営されている社会にいることをありがたく思う。

自分の思った通りに進むかどうかは別として、

それぞれの民意を示す機会、投票権という権利は与えられている。

政治家という、面倒極まりない仕事を買って出てくれる人も世の中にはいらっしゃる。

 

何が効いたかわからないけれど、いつの間にか社会が良くなっていた、ということはないだろう。

失敗を重ね、手こずりながらも、回復に向けて臨んでいくしかない。

 

とはいえ、風邪のぶり返しは避けたいと願う。

 

助言に想うこと

 

また、陽射しに温もりを感じる時期になった。

自然の不思議を想う。

あれほど蒸し暑かった季節から、今年もまた厳寒に向かおうとしている。

 

助言について。

 

その人のためを思って、自分なりの意見を述べる機会を多くの人が経験しているだろう。

相手に心を寄せるからこそ、より良くあってほしいからこそ、時として言葉に乗せる

想いは強くもなる。

近しい関係であれば、言葉数も増えることだろう。

 

言われる側や第三者の立場に立ってみると「あなたのためだから」と言いつつ、

実は自分の言いたいことを言っているだけではないかとか、

とにかく何か言ってやりたい、という想いが勝っているのではないか、

感じる場合もある。

そこに気を取られると、せっかくの助言も残念ながら心に響きにくくなる。

言われる側の意識は、助言の内容のみに向けられているとは限らない。

 

言う側としても、自重は難しいものだと感じる。

まず、傾聴というのは簡単ではない。

たとえそれが理路整然とした話であっても、なにかしらのジャッジを加えながら聞いてしまうものだ。

ましてや話の中身が明らかに偏った判断からくるものであったり、

心の余裕のなさが招く感情的な判断からくるものであったりすればなおのこと、

本人が気づいていない隙を突きたくもなる。

一見、表現は穏やかであっても、言い負かしてやろうというエゴも生まれうる。

エゴの暴走を許さず、中庸を心の軸として、

出すべき態度や言葉を選ぶ訓練を意識的に自分に課していかなければ、

ただ言いたいだけの人になりかねない。

 

人の成長や気づきを見守るのはじれったく、時間も手間もかかる。

率直な助言が必ずしも相手の心に届くとは限らない。

さっさとこうすれば効率良く運ぶだろうに...と、客観的にゆえ、見える場合も事実多いだろう。

私自身、どれだけ多くの人にそんな想いをさせていることだろうと思う。

それでも、本人が選び取るタイミングで、

そして、それがたとえ不器用な様であったとしても、

その経験のひとつひとつを通して、気づき、成長していくしかないのだろう。

 

助言を与えることで、何かを変える手伝いはできるかもしれない。

しかし何を選びいつ行うか、そのすべては本人が決めることである限り、

助言者の役割は、その人の生きる過程を見守ることに集約されていく。

助言の内容以上に、見守るちからを身に着ける必要があるのかもしれない。