心象風景

* 算命学による宿命鑑定 *

おひとりおひとりの心に寄り添い、一歩前へ進むためのエッセンスをお伝えしています

助言に想うこと

 

また、陽射しに温もりを感じる時期になった。

自然の不思議を想う。

あれほど蒸し暑かった季節から、今年もまた厳寒に向かおうとしている。

 

助言について。

 

その人のためを思って、自分なりの意見を述べる機会を多くの人が経験しているだろう。

相手に心を寄せるからこそ、より良くあってほしいからこそ、時として言葉に乗せる

想いは強くもなる。

近しい関係であれば、言葉数も増えることだろう。

 

言われる側や第三者の立場に立ってみると「あなたのためだから」と言いつつ、

実は自分の言いたいことを言っているだけではないかとか、

とにかく何か言ってやりたい、という想いが勝っているのではないか、

感じる場合もある。

そこに気を取られると、せっかくの助言も残念ながら心に響きにくくなる。

言われる側の意識は、助言の内容のみに向けられているとは限らない。

 

言う側としても、自重は難しいものだと感じる。

まず、傾聴というのは簡単ではない。

たとえそれが理路整然とした話であっても、なにかしらのジャッジを加えながら聞いてしまうものだ。

ましてや話の中身が明らかに偏った判断からくるものであったり、

心の余裕のなさが招く感情的な判断からくるものであったりすればなおのこと、

本人が気づいていない隙を突きたくもなる。

一見、表現は穏やかであっても、言い負かしてやろうというエゴも生まれうる。

エゴの暴走を許さず、中庸を心の軸として、

出すべき態度や言葉を選ぶ訓練を意識的に自分に課していかなければ、

ただ言いたいだけの人になりかねない。

 

人の成長や気づきを見守るのはじれったく、時間も手間もかかる。

率直な助言が必ずしも相手の心に届くとは限らない。

さっさとこうすれば効率良く運ぶだろうに...と、客観的にゆえ、見える場合も事実多いだろう。

私自身、どれだけ多くの人にそんな想いをさせていることだろうと思う。

それでも、本人が選び取るタイミングで、

そして、それがたとえ不器用な様であったとしても、

その経験のひとつひとつを通して、気づき、成長していくしかないのだろう。

 

助言を与えることで、何かを変える手伝いはできるかもしれない。

しかし何を選びいつ行うか、そのすべては本人が決めることである限り、

助言者の役割は、その人の生きる過程を見守ることに集約されていく。

助言の内容以上に、見守るちからを身に着ける必要があるのかもしれない。