心象風景

* 算命学による宿命鑑定 *

おひとりおひとりの心に寄り添い、一歩前へ進むためのエッセンスをお伝えしています

幸運、不運

 

人生、運の良し悪しは多少なりとも気になるところ。

運・不運なんて気にしないと言うおおらかな人でも、過去の経験の中で思い当たることが

いくつかはあるのではないでしょうか。

 

幸運は運勢の伸び、不運は運勢の低迷、といった表現があります。

では幸運が文字通り "良い" ことで、不運は "良くない" ことなのかというと、

そんなふうに一概には言えないようです。

 

ものごとがうまく運ばないと「何がいけないんだろう」と原因を探ることはあっても、

うまく運んでいるときは「何が良かったんだろう」と振り返ることは少ないように感じます。

不運を知らず、なんとなくラッキーな人生を歩めるのはある意味では幸せですが、

良くも悪くもそれがあたりまえになってしまい、感謝を忘れ、謙虚さを忘れると、

心の深みや広さが感じられない人間へとなっていきかねません。

 

必ずしも幸運がすべてではない、ひとは不運の中で学ぶことが多い、と言います。

 

算命学では「宿命的に "〇〇運が良くない"」という言い方をすることがありますが、

これは、その事柄において苦労をすることで自分の心の進化に必要な学びを得ることができる、

ということでもあります。

(そしてこれを踏まえて、人生のバランスを取るための改良方法を提案させていただくのが

算命学の特徴のひとつです)

 

光と陰はセット。

ひとは、陰を経験したことのない相手に、光を感じることはありません。

不運や不遇を経験し、それらを糧として歩みを進める姿に、

奥深さや味わいを感じるものではないでしょうか。 

 

 

若い時は健康なんて人生にタダでくっついているあたりまえのものでしたが、

健康なだけでどれほどありがたいか、年々考えを改めています。

シンプルなことほど、あたりまえではなく、ありがたく受け取らせていただくもの、

感謝を忘れずに生きるうえでの基本を教えてくれているのでしょう。

 

健康という幸運に感謝して、そのほかの課題にチャレンジしていけたらと思います。

 

 

雨あがり

 

連日の雨も今朝は上がりました。

外に出てみると、雨に浄化された清々しい空気に包まれていました。

路面にも反射した太陽の光はいちだんと輝いて見えます。

 

雨空続きも困るけれど、ようやく上がった時にこそ感じられる瞬間の喜びがあります。

 

ある面から見ると自分にとって都合の良くないことも、

また別の面から見ると、自分にとって必要があって起きていると気づかされることもあります。

 

一面に囚われて、思考や歩みが止まるときもある。

疲れているときは無理もないかもしれません。

けれど、そこからまた一歩踏み出すことができるということを思い出してみてください。

人は止まったままでは生きていけません。

必ず動ける日が来ます。

 

 

たゆまず

 

見事に咲き誇る花の季節から、若葉が萌える姿へ。

置かれた環境で淡々と、為すべきことを己のペースで為して在る。

人間の場合、受け身のままで一生つつがなく通り抜けられるわけではありませんが、

それでもやはり自然に習うところは大いにあるものだと感じます。

 

季節をひと区切りとしたスタートにはお正月や新年度の4月がありますが、

この春、転職先や異動先、進入学などで新しい出逢いに触れ、

新鮮さと緊張感とで刺激のある時間を過ごしている方もいらっしゃるでしょう。

季節のもたらす穏やかな雰囲気とは裏腹ですね。

 

何かを持つということは、それにまつわる心配事も付いて回るということで、

大きな問題から、問題と呼ぶには些末な事柄まで、

心の一部を占める靄のようなものは簡単には一掃されないものです。

それでも、今できることを淡々と続けていけば、見えてくるものもきっとあるのでしょう。

 

焦らず、たゆまず。

 

人間性の向上

 

人間性の向上について思い浮かんだことを、ゆるりと。

 

算命学では星の特徴、個性を活かし、運勢の安定を保つうえでさまざまな「改良法」があります。

あれこれ手を出さずに道や目的を一つに絞って邁進することを良しとする改良もあれば、

積み重ねや継続性を願わず、瞬間瞬間を精一杯生きることを良しとしたり、

世間で言う "あたりまえ" を求めず、普通とはいえない変わった環境で生きることを良しとしたり、

その方の星を活かすための策はさまざまあります。

放っておくと安定しづらい運勢のバランスを図るための改良法ですから、

残念ながら甘いお薬とはまいりません。

 

しかし「究極は人間性の向上、霊格の向上」であると折に触れて教えられました。

 

人間性の向上、と一口に言ってくれるなと思う方もいらっしゃるかもしれません。

その通りです。簡単なことではないのです。

それゆえ "究極は" と付けられているのです。

 

ではこの "究極" の前で、そのほかの改良法の意味が薄れるのか、対症療法的かといえば、

そういうことではないと私は思います。

改良法を取り入れて人生のバランスを図り、自分を知る。

その行程、積み重ねの中に、人間性の向上に結び付かせるための経験や気づきが

隠されていると思うのです。

運勢が安定した、人生が崩れなくて良かった、で終わる話ではないように感じます。

 

対人関係で星を活用する場合も似たようなことがあります。

たとえば、"苦手なあの人" の星を知ることは、対人関係をスムーズに進めるうえで

かなり役立ちます。

好きにならずとも、せめてストレスのない(小さい)関係にしたい場合、

星から相手の特徴を分析し、関係性に調和をもたらすにはまず自分自身がどのような行動や

言動を心がけたらよいかなどを探ることができます。

実際に行動を工夫し、実感を伴った効果が現れてくると安堵しますが、

その頃には、これでおしまい、という意識ではなくなってきます。

「とりあえずこんなふうに対応しておけば問題ないでしょ」という対症療法の視点から

一歩進んだ、"苦手なあの人" の受け留め方、視座を持てるようになってきます。

徐々に、"苦手なあの人" のあるがままを冷静に見つめられるようになってきます。

そして、それができるようになって一番幸せなのは、間違いなく自分自身でしょう。

 

人間性の向上とはどんなもので、どこを目指すべきか。

設定するのは自分です。

その核なる部分に触れるには、各々が行動に移し、実践し、経験を通じてこそ。

私が現時点で感じるのはやはり「七十而従心所欲不踰矩」です。

みんなとうまくやろうとかバランスを取ろうなどと考えて生きている動植物はなく、

熾烈な生存競争の結果、調和がとれているように見える大自然の姿とどこか重なるものがあります。

 

 

 

星を輝かせる

 

星(宿命星)を輝かせるとは、

宿命として備わっている星の機能を活用すること、特徴を活かすこと、とイメージしてください。

 

星をバランスよく輝かすことは、その人らしく生きることの一つでもあります。

元々備わっている星ですから、星の特徴は自然に現れるもの、無意識に行動に移しているはずと

考えられますが、どうもうまく使えていない場合があります。

しばしば目に留まる星の一つに、

"人間関係をスムーズに運ぶことが得意" という特徴を持つ "石門星" があります。

コミュニケーション能力を必要とされる環境で生きる人にとってはありがたい星です。

清濁併せ呑み、本音の部分では好き嫌いはあるにしても、それを表面に出さずに円滑な

人づきあいができ、集団の中で力量を発揮します。

しなやかでしたたかで、大人の星といった印象を受けます。

 

星の特徴や機能は才能とも言い換えられますが、

元々持っているにも関わらず活かせていない理由として、

その方が過ごしてきた環境やその他の星とのバランスなども考えられます。

が、なにはともあれ、備わっているとわかったら、意識して使っていくことです。

こういうことか、と感触が掴めるまでは戸惑うこともあるかもしれませんが、

石門星の例で言うなら、

「自分には人づきあいの才能がある」と信じて(意識して)やり続ける(行動する)こと。

そして、常にできなくてはいけない、というわけではありません。

星のスイッチをONにしたりOFFにしたり、無理せず体験を重ねて、自分なりのコツを掴んでいってください。

どの星もそうですが、

バランスを取りながら、自然と上手な使い分けができるようになってくるのが理想なのでしょう。

 

なお、宿命にない星の機能はまったく備わっていないのかというと、そうではありません。

どの星の機能もすべての人に等しく備わっているのですが、

その中からさらに多めに搭載しているのが宿命星として表れている星です。

"行動的な星" が宿命にないからといって行動力がゼロというわけではありません。

ただし、その星を宿命に持つ人に比べると無意識での行動力に差が出ますので、

持たない人は意識して行動に移す工夫、努力といったものが必要になってきます。

 

さらに付け加えると、宿命にない星の機能・才能を後から身に着ける、ものにするチャンスもあります。

大運という10年単位で巡る、いわばその期間の "ムード" として現れる星があります。

宿命星の周囲を衛星のように廻る星、とイメージしてください。

その星が巡る10年間、星の機能や意味を意識して生きることで、その星の機能を取り込むことができます。

 

実際の人生は、複雑な要素が絡み合い、織りなされていますので、

星ひとつを輝かせていないだけで大騒ぎすることはないのですが、

これまで使ってこなかった星ひとつをしっかりと輝かせることで、

小さくとも確かな成長、変化を実感することができます。

 

出来うる限りの成長を目指しながら、今生を生き抜いていくために備えてきた星です。

ときに大きな流れや環境に左右される時期もありますが、

自分の宿命星の意味を知り、その機能を使いこなすことで、

自らを成長させ、創りあげていく一助となります。 

 

ご自分の宿命星の中で輝かせていない星がありそうな方は、どうぞ遠慮なくご連絡ください :-)

 

 

宿命星と暦の関係

 

算命学で用いる宿命星は、生年月日と性別を基に算出します。

 

なぜ生年月日か。

 

算命学では宇宙・自然の法則を神、大いなる存在とみなします。

人類の進化や文明の発展という名の下で環境の変化が刻まれていこうとも、

宇宙・自然の中で人間が生きることに変わりはありません。

 

生年月日を基にして(暦を媒介として)人間をその自然の中に溶け込ませ、

それぞれの姿や立ち位置、周囲との関係がどのようになっているかを見ます。

人間を自然の中に映し出す、と言ってもいいでしょう。

 

暦は太陽や月の運行観測から生み出されました。

算命学で用いる干支暦(太陽太陰暦)は、自然の姿や事象の特色を符号化したもの。

人間の生年月日をこれら符号と照合させ、宇宙・自然における姿を浮かび上がらせるのです。

常緑の木に姿を変える人、地中の根っこに姿を変える人、大海に姿を変える人...

人間として与えられた今の姿かたちからは想像しがたいかもしれません。

 

宿命星を表すこれら基本の符号は "六十干支" と呼ばれ、

陰陽五行(木火土金水)の組み合わせにより生まれます(丁酉、庚申など)。

性格・性情・人生の処し方の特徴、才能、生きていく時代や環境のムードなど、

すべての源がこの六十干支にあります。

 

六十干支それぞれに別名が付いており、なかなか詩的センスを感じさせるものも

("崑崙の夕日"、"古木の精"、"驟雨の晴れ間" など)。

さらに六十干支から派生するさまざまな符号との関係を見ながら、

転職や結婚のタイミングを計ったり、相性など誰かとの関係を観たりします。

 

鑑定の度、脳みそがねじれるのではないかと思うほど、複雑な要素の絡み合いにより

ひとの一生はできていると実感します。

 

宇宙・自然と一体となった自分の姿。

その観点で眺めてみると、見えてくるものもあるのです。

 

* * * * * 

少しずつ、私なりの理解で算命学についてお伝えしていきたいと思います。

※筆力と構成能力の限界により、乞うご期待、とは言えません。あらかじめ。

 

 

信念とスプーン

 

「信念って、曲げるものなんですか?」

何について話していた最中だったか、友人の口から「信念を曲げない人ですよね」とのコメントが。

それに対し咄嗟の反応で出た私の台詞がこれでした。

 

「そもそも、曲がるような考えは信念ではないのでは?」

「いや、世間は違う。信念を曲げて生きている人はたくさんいる」と続く。

どうやら「信念」には幅広い定義が存在するとしか思えません。

 

迷い、戸惑い、失敗を繰り返し、ようやく一歩進めたかと思えば次の壁にぶつかり立ちすくむ。

観客のいない独り芝居、それも大根役者が痛い芝居を好き勝手に演じているようなもので、

どうにも心許ない日々の連続。

自分では信念を貫いて生きている実感も自覚もないというのに、人に与える印象の不思議よ。

 

その曲がらぬ信念、果たしてどれだけの成果を上げてくれたことでしょう。

むしろ長いものに巻かれる能力に何度憧れたことか。

年を重ね、傷跡も増え、さすがに伝え方にこそ工夫は出てきたものの、

相変わらず "私だったら" と考えるし、伝える。

組織で働いていても、解せない理屈を丸飲みにできた記憶がない不遜な私には、

「上の言うことは絶対」という従順さは、ひとつの才能に思える。

 

組織で自分の居場所を安定化させるにはさまざまな能力を必要とする。

弱肉強食の世界。仕事ができることが一番かと思いきや、実は協調性や従順さがモノを言う。

いくつものNOに目をつぶりOKを出していく器用さや忍耐力がなければ、

求める安定には近づけない。

 

世間にはスプーンを曲げられる人がいます。

スプーンも信念も、私にとってはそもそも曲げるものではないのですが、

コツやタイミングを会得したら、私にも曲げられる日が訪れるでしょうか。

その世界は私にとって、どんな景色に映るでしょうか。

 

思考の整理が進まないまま眺める世界からは

「道なき道を行け」のメッセージが目に飛び込んできます。

くすくすと笑いながら見守られているような気がするこの頃です。

 

 

正解

 

自分のことは自分がだれよりもわかっているつもりでいて、

「あなたにはこういう面がある」など、他者から思いもよらぬ指摘を受けると、

その可能性に考えを巡らしたり、心が揺れたりと、

良くも悪くも定まらぬ時間を過ごすこともあります。

 

定まらぬのは気持ちだけで、身体はある一定の動きに合わせ

生活のリズムを刻んでいるように見えるのですが、

そのアンバランスが続くと、心の不安定さが身体にも影響を及ぼしてきます。

 

皮肉なものですが、そんな状態ゆえにバランスの妙を知ることになるのでしょう。

うまく動いているときは、それが当たり前のこととして不思議に思わず、

悪気はないものの、いつしか感謝の心もおざなりになりがちです。

 

バランスを崩した状態は心地良さからは程遠いものですが、

慌てず、不安の虜とならず、静かに自分のペースで内省をしていけば、

必ず何がしかの手がかりと巡り合える。

 

ここで肝だと感じるのは、

人それぞれのペースがあるということ、

そして、万人に適用する「正解」はないということ。

 

この選択をすれば必ず成功する、という保証などなく、

大なり小なり選択を続けていくしかない中で自分を支えていくのは、

自信という勇気なのではないか。

他者から与えられる自信ではなく、内側から湧き出る、根拠なき自信。

 

誰か、それも社会の多くの人が選択してきた「正解」にはさまざまな事例を介して

受け継がれているノウハウもあるし、魅力的に語られることも多いし、

自分もそれをやっておけば、目指しておけば、まず間違いはないんじゃないかと思えてしまう。

けれど、生きることに関してそんな「正解」などない。

自分にとって何が「正解」かは、手探りで進んで行って、

爪を剥がしたり、膝を擦りむいたりしながら辿り着くところのものであり、

それはいつでも自分なりの発見であり、

他人の描いた理想やパターンを自分に当てはめようとして、ぐるぐると目を回す必要はない。

 

そしてこれもまた、一度や数度、陥ってみないと気づかないことなのでしょう。

 

少しずつ、日が長くなってきました。

陽射しに春のぬくもりを感じるようになるまで、今しばらく。